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  • 2018.01.16 Tuesday
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作曲家になりたくて◆蘇舛韻覆ぬね茲了僉

作曲家に憧れた大きなきっかけの一つは

「久石譲」さんの音楽でした。

 

大学中に自分の好きな音楽を見つけたくて

CDを聴きまくっていて、出会った久石ワールド。

 

アルバムの曲が全部よかった、それが久石さんの音楽。

 

そして、久石さんのように「映画音楽やりたい」って

強く思いました。

 

 

さて、教員を目指すことをあきらめ、

作曲家になるべく、歩みだした東京生活&フリーター生活。

 

20代は、総括すると・・・

 

「不安、焦り、そして周りの期待と本当にやりたいことのずれ」

 

でしょうか。

 

どうすれば作曲家として仕事できるようになるのか?

その方法が分からなかったので。試験があるわけでもないし。

見えない道を行くことの不安、怖さ、そして同世代が就職していく中で、

「お前どうすんの?このままでい〜の?」とか言われるし。

 

実家帰っても心配されるし。

 

稼げるようにならないと女性とも自信もって付き合えないし・・・

 

 

全ては今に繋がっていると、今になれば、そう思えますし

全てが完璧な流れと信じられるようになったので、今は全ての流れに身を委ねることができますが・・・

 

 

ただ当時は・・・先が見えなくて不安でしたね〜。

 

 

「映画音楽やりたいな〜」っていうのが一番の思い。

 

でも、その仕事ができるわけではないので・・・

 

(記憶が曖昧なところもあり、時間軸もたしかではないですが

覚えているところから書くと・・・)

 

〕兇錣譴胴臂団に入る(22〜24歳くらい)

指揮者&作曲家である代表(といっても2歳くらい年上)が作った団体で

既成の曲以外にも、彼の作った歌を歌ったり、創作オペラを上演したりしました。

 

僕はテノールとして歌っていましたが、こういう居場所が出来た事はよかったし、

何より、身近に作曲家がいて、大変刺激になりました。

 

僕も自分の曲を作って、お客様に披露したいな〜って思いましたし、

実際、2曲くらいは作ってコンサートで演奏していただきました。

なんか、自信あったのですよ、自分の曲に。

「いい曲でした!」って言われて嬉しかったのを覚えています。

 

しかし、あくまでも僕はテノール!

 

代表がやりたい創作オペラに出演し、演技もやるようになり・・・

(プロレスラーの役とかやりました)

 

期待に応えなきゃ、という思いと、

自分らしさから離れて、無理をしている部分があり・・・

 

団体運営の問題も絡んで、辞めることにしました。

 

よく、団長から言われた言葉は

「音楽で生きるなら、音楽でお金もらわないとダメだよ」と。

 

何でもいいから音楽関係で仕事しなきゃ、って思ったものです。

 

 

でも団長に出会って、

●今振り返ると感謝していること

・作曲してお客様に披露すること

・楽譜の書き方、アレンジなど

 

たくさん刺激をいただき、「自分も作曲やりたい」って

より思えるようになったので、本当に感謝しています。

 

 

音楽教室立ち上げ〜ジャズとの出会い(24〜26歳くらい)

合唱団は辞めましたが、そこで出会った何人かは、音楽仲間として

今も縁が続いています。それは本当によかったと思います。

 

友人の1人が、自分で音楽教室を立ち上げることとなり、

僕はそこの伴奏者&作曲者として関わるようになりました。

 

音の教室カリヨンです。こちら

 

絵本を題材に歌ったり創作活動をしたりする教室。

僕は毎月1冊、絵本にピアノで音楽をつける仕事をしました。

やめるまでに20冊くらいはやったかな?

 

いつか映画音楽をやるための準備だと思って、楽しんでやっていました。

 

※それが今のラトレの活動や、絵本プロジェクトにもつながっています。

 

そのご縁から、他の音楽教室のピアノ伴奏やったり、

さらには専門学校の講師として

ピアノを教えたり、音楽理論を教えたりしました。

(この頃、専門学校を紹介して下さった先生が出版する本に、絵本音楽の楽譜が

掲載されました。僕にとっては大きな出来事でした)

 

 

この専門学校の講師の仕事は2年やりましたが

契約の更新はありませんでした。

「自分のやり方が正しい」と思っていて・・・

まあ、生意気というか、自分をすごい人に見せたかったのでしょうね・・・

 

あと、音楽教室も、「自分はここだけで終わりたくない」なんて思って

いろいろあって、こちらも辞めました。

 

 

 

アルバイトは、これもご縁で

ジャズバーのウェイター&キッチン業務を開始。

 

毎日、ライブをやっていて、ずっと聴いているので

本当にいい時間を過ごせたと思います。

 

(大野雄二さんや、鈴木重子さん、tokuさん、エリック・ミヤシロさんなど)

 

ジャズピアノがかっこよくて、一瞬、ジャズピアニストになりたくなったくらい。

 

猛烈にコードと、ピアノの押さえ方などを勉強しました。

(少しジャズピアノの練習をしましたが、どう考えてもプロのようには弾けない、と思い、諦める)

 

 

●今振り返ると感謝していること

・絵本音楽の作曲をたくさんした(今も財産)

・自分の楽譜が本に載った

・プロのジャズ演奏をたくさん聞いた

 

26〜27歳くらいって何やっていたのか、あまり覚えていないのですが(ジャズバーも辞めたし)

 

 

自主公演と本当にやりたいことのはざまで・・・(28〜31歳)

 

まず、ソプラノ、バリトン、そしてピアノ(僕)の3人グループ「ラ・クチーナ」始動。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クラシックやイタリア歌曲、童謡などを中心に演奏。コンサートでは1〜2曲、相澤のピアノソロを

入れさせてもらいました。自分の曲を少しずつ披露。

 

ただ、ピアノはめちゃめちゃ緊張して、まともに弾けたことはありませんでしたね〜。

自分が伴奏をして生きていく、というイメージは持てなかったので、

やりたいこと(作曲)と周りの期待(ピアノ伴奏)の間で、もがいていました。

 

何度かコンサートをやりましたが、解散しました。

 

●ピアノソロの曲を作って、お客様に披露することができました。自分の曲に対して

 自信がついてきました。

●アレンジもたくさんやったので勉強になりました。

 

 

ヴァイオリン×2、チェロ、そしてピアノ(相澤)によるカルテットグループ「Forest」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

完全にオリジナルを中心とした活動で、まさに久石さんを目指していた僕にとっては

この時に、たくさんの曲をこの編成で書きました。

弦楽器も初めてだったので、たくさん教えてもらいました。

 

 

曲はすごい自信ありました!僕の好きな曲をたくさん書きました。

 

都内でコンサート、または長野にいったりもしましたし、

ホールを借りてレコーディングもしました。

デモ音源を作って、来場して下さったお客様に配ったりもしました。

 

 

そういった録音やプロデュースをして下さる方がいたおかげで活動ができました。

長野にも応援して下さる方もいたし、

バイト先(テレアポやり始めていました)で知り合った方も、ハワイと縁があって?

「ハワイで公演やろう」となって・・・

 

 

周りがたくさん応援して下さっていたのですが、

僕は嬉しいのと同時に、やっぱり見えなった・・・

 

自分が演奏をして、大ホールやハワイで演奏したり、ツアーをする自分の映像が。

 

 

それを言えないまま、

自分と周りに本心を言えず、うそをついていたので・・・

 

 

人間関係でもめまして、解散となりました。

 

 

ハワイの話は資金援助という所まで話が決まっていた中での解散なので・・・

大変なことになりましたね〜。

はい、罰金を支払ったり・・・

 

 

応援して下さった方達には、本当に申し訳ないことをしました。

 

 

そしていろいろなくなりましたが・・・

 

 

 

このForestで出会った人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この方と結婚するという流れになっていくのです。

 

 

ざっくりとこんな20代でした。

 

 

出会っては別れて・・・

 

嫌われたあの人も・・・

 

今があるのは関わって下さった全ての人のおかげです。

 

本当にありがとうございます。

 

 

奥さんとの出会い、そしてForest時代に作ったデモ音源のCD。

 

これらが予想外の未来へと繋がっていきます。

 

 

では、また続きは次号で。

 

 

 

追記。その頃のバイトや挑戦したこと。

 

・テレアポやってました。ちょーきつかったけど、かわいい女の子がめちゃめちゃ契約とってたので

 逃げたら恥ずかしい、と思い、頑張ってやっていました。まあ成績がよければ30万近くはいただけたので。

 ただ、心は相当きつかった。行くのが嫌でした。すご〜い体育会系ですから(怒鳴られる、休めないなど)。

 (結婚してもしばらく続けていました)

 

・作曲コンクールとか出してみたものの、全くひっかからず。そもそも難しい曲は書けないし・・・

 でも世に出る方法の一つとして3回くらい挑戦したかな?

 

・1年間だけ、パソコンで音楽を作る方法を学びたくて、打ち込み系の専門学校へ通いました(親にお金出してもらって)

 これが出来ないと仕事はない、と言われていたので。ただやっぱり苦手でした。

 今は打ち込みは全く興味がないです。出来なくてもいいと思っています。僕がやりたいのは楽譜を書く音楽だから。

 

・久石譲さんのコンサートで、コンサート後にファンの方が花束を渡すのですが、

 なぜか僕も自分の曲をMDに入れたものを花束に仕込んで久石さんに渡した。なぜそんな事をしたのか?

 久石さんに渡してどうするの?・・・

 

 

 


 


作曲家になりたくて〜消去法と逃げの連続〜

僕は小さい頃から作曲を目指していたわけではありません。

 

音楽との出会いも、

小学校3年か4年生の頃、

 

友人がピアノを習っていて、

なぜか僕も「やりたい」ってなって

親に頼み、習い始めたのがきっかけだったと思います。

 

親は全く音楽やっていなかったのに

いつまで続くか分からない僕のために

 

よくもまあ新品のアップライトを買ってくれたり

クラシックのピアノ曲がたくさん入ったカセット買ってくれたり

したなあと思います。

(小学生時代はポップス全く知らなくて、カセットのショパンとかお気に入りでした)

 

 

中学で友人の影響でX(X Japan)を聴いて感動!

エンドレスレインをまさにエンドレスで弾いていました。

 

この頃から耳コピやり始めたかな?

買ってきた楽譜とCDの音が違うと気に入らなくて、自分で音を探していました。

(これは今考えると、とてもいい事をしてたと思います)

 

で、中三の文化祭で委員会の出し物の音楽は

僕が生演奏で、全部Xの曲を場面に合わせて適当に弾いていました。

(その頃から場面と音楽の組み合わせをなんとなくやっていました)

 

ちなみに音楽系の部活ではなく、テニス部の幽霊部員で、ようは帰宅部です。

(テニス、あんまり上手くなかったので逃げ

 

ピアノだけは先生が好きだったのでずっと習っていました。

 

普通に地元の高校に通い、

ここではやりたかったサッカー部へ。

 

(中学の時に長距離で結果を出していたので、高校で陸上部にスカウトされるも、断りました。

それは、中学でもし陸上部があれば、きっと入っていたと思いますが、なくて

大人に相談したところ、あまり激しくないテニスとかやっておいたら?と言われ、それに

従ったのですが、自分で決めなかったことをすご〜く後悔していたので、

高校では、誰が何と言おうと、自分がやりたいと思ったものをやろうと決めていました)

 

 

で、サッカー部。1年で辞める・・・(逃げ)

 

 

高校生になって、将来の仕事について、自分は何をやりたいのか、悩んでいました。

職業一覧、なんていう本があって

それを全部見ましたが、惹かれる職業は一つもなし。

(なんていうかな〜自分が働いているイメージが全く持てなかったです)

 

あえて言えば、音楽の先生かな?

 

 

ということで、教育学部音楽科を目指すことにして、音大専門の先生を紹介していただき、

まあ、先生には今のままでは受からない、と言われ、

部活も辞めたということです。

 

 

消去法&逃げ

音楽が好きだったから、なるべく受験科目は少ない方がいいので(歴史とか嫌いでした)、

受験に必要な教科以外は、勉強せず。

 

消去法

どの大学にいこうか、まず優先事項は、都会に出る事(笑)!

一人暮らしに憧れていましたから。

 

なので、東京、千葉、神奈川、埼玉にある、しかも親の負担がかからないように

国立大学を狙う。

自分の勉強レベルなどを考えて、千葉大学、埼玉大学、そして滑り止めで文教大学を選択。

 

逃げ(※一番行きたかった千葉大の受験と滑り止めの文教が終わったあと、後期日程の埼玉大学を

受ける気力がなく、結局受験せず。親もよく許してくれたものです。自信はあったけど、

もちろん不安もありましたが、2.3倍の千葉大に合格できました)

 

 

大学で作曲法という授業に出会い、そこでジャズやコードに触れます。

これは結構大きかったです。

新しい響きに感動して、ジャズの押さえ方やコードを少しずつ勉強。

 

大学3年生、もう先生になる気満々で、中学1種と小学2種の免許をとるために授業受けまくり。

 

ここで!

 

 

同じ学科の友人がスペインに留学するのを見て、猛烈に羨ましくなる!

 

 

ということで、自分はイタリアに奨学金もらって行く、と突如決めて、

申請&イタリア語で論文を出し、なんと最終面接まで行きました。

 

この時、イタリア語の歌が好きだったし、サッカーも好きという理由でイタリア。

でもこの奨学金、行きたい国を3か国から選んで、そのどれかに決まるというもの。

 

もちろん分かっていましたが、僕はイタリアしか行きたくなかったので、

希望の行先を全部イタリアの大学を書きました。消去法?

 

なぜかそれで受かると思っているからすごい思い込みです。

 

で、最終面接で、「イタリア以外も選んで下さい」と言われ、

僕は

「イタリアに行けないのなら辞めます」って言って、断ってきちゃった・・・(逃げ)

 

今思えば、どこかに行っておけばよかったと思いますが・・・

(しかも奨学金で行けることがほぼ決まっていて、地元ではパーティーも開かれたっていうのに、

それを最終で断るっていう・・・今考えれば恐ろしい・・・)

 

 

ただ、この友人の留学がきっかけで、僕は自分の将来を考えるようになりました。

 

「本当に先生になりたいの?」って。

 

 

音楽が好き。でも、教えるのが大好き、というわけではない・・・

 

そしてふと見た、教員採用試験の問題集・・・

 

 

めちゃ難しい!全然分からない!

 

 

ということで、まだ先生にならなくてもいいか、という理由をつけて(逃げ)

 

フリーターへ。

 

東京さ、出たい、と思って、友人が住んでいる東京へ転がり込み。

 

男3人同居生活が始まる(いや〜あれはすごい生活だった)。

 

 

あっ、大学の3,4年生って友人と二人で住んでいたのです。

安いので。

車もあって、なかなか楽しい生活でした。

 

東京の男3人生活の時も車ありました。

 

僕は自分で車買ったことないけど、常に車がある生活をしています。

運がいいんですね。

 

まあ、東京に行く事になったのも、大学の同居友人とケンカしてしまった、

ということも原因の一つ(千葉から逃げ)

 

さて、このフリーター時代から現在までのストーリーは

また次のブログで書きます。

自分で書いていて面白いっす。

 

読んで下さってありがとうございました。

 

 

続きをお楽しみに。

 

 

 

 

 

 

 


僕の20代〜其の1〜

最近はとっても素敵なメッセージをいただいている

田宮陽子さんのブログ。

 

ワクワクにしたがって生きれば

幸せだし、お金も入ってくる時代になっているそうです。

 

宇宙も神も

 

無条件に、等しく

この地球上の人をサポートしてくれているから

 

「僕には無理」とか

 

「あの人だから出来たんだ」とか

 

「僕はどうせ大学行ってないし」とか

 

「情熱だけでは食べていけないよ」

 

「好きなことをして食べていくのは大変だよ」とか

 

そういう言葉や考え方は

宇宙から見ると

 

謙虚ではなくエゴ!

 

そう捉えらえるそうです。

(僕もよく言われました。これからどうするの?とか

ちゃんと先のこと考えてるの?とか)

 

なぜなら

 

自分の力を持っているのに、発揮しようとしないから。

 

自分は人とは違うってわがままを言っているから。

 

詳しくはこちらの記事です→こちら

 

 

 

で、僕の20代の話ですが、

 

大学を卒業するころに、教師になるつもりだった自分が

教員試験の難しさを前に、つまづき始め、

なおかつ作曲家に憧れ始め、

 

「まだすぐに教師にならなくてもいいか」

 

ということでフリーターを始めます。

 

そして、その時に友達の紹介で

アンサンブルグループに所属します。

 

ここでは、そのグループの代表の方が作っているオリジナルの曲を

コンサートで歌ったりしていて、

プロとして、活躍していこうという思いで頑張ってるグループでした。

 

僕はテノールとして入団。歌っていましたよ。

 

始めた頃は、楽しかったですけどね。

 

 

よかったのは、身近に作曲家がいて、作った曲を演奏者である

仲間がコンサートで歌い、そしてお客さんが喜んでくれているというのを

実際に見る事が出来た事。

 

これはおおいに刺激になり、所属している時に、何曲か、

僕も合唱曲に挑戦して、実際に歌っていただいたことがあります。

 

そしてお客さんがよかったと言ってくれたことはすごく自信になりました。

 

 

これなら、いわゆる「自分のワクワクにしたがって生きている」状態なので

よかったと思いますが、

 

僕はここではテノールです!

 

そして、ただ歌うだけではなく、代表がもっともやりたかった

日本語のオペラにも挑戦していくことになり、

 

そうなると今度は歌うだけではなく、

 

演技もしなくてはいけません。

 

セリフあり、動きあり、

(プロレスラーの役で主役をやったこともあります)

 

なんとなやりとげましたが

ここで大事なのは

 

すごく心は無理をしていた、ということです。

 

やりたいことと、どんどん離れていく&

自分ではやりたくないこと(この場合演技ですね)を

求められ、それに応えようと必死になっていたこと

 

です。

 

 

無理をすると、やはりそれは続きませんね。

 

不満もたまり、

 

辞める事になります。

 

もちろん、全てがいい経験であり、無駄なことは何一つないと思っています。

 

ただ、やはり自分の「やりたい」「心地いい」「楽しい」に

従わないと

続かないですよね。

 

断るのが苦手な僕は、

期待に応えようとすると

結構頑張ってしまうところがあるのです。

 

これが、卒業後、最初の音楽体験でした。


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